陸奥の家流とは 組織図 体験入門・稽古場紹介



津軽手踊りの「陸奥の家流」は、その前身を「陸奥の家演藝團」に辿ることが出来る。
当時隆盛であった唄会一座の「陸奥の家演藝團」は、「陸奥の家美栄子」が率い、北海道はおろか今は異国の地となってしまっている樺太、さらにはもっと遠く満州迄をもその行動範囲とした大変に大きな津軽民謡を中心とした演藝團であった。
今、津軽民謡の大御所として貴重な存在の「浅利みき」さん等も良く客演として参加されたという。そんな「陸奥乃家演藝團」の中心となった花形出演者が「初代陸奥乃家喜美栄」。
 




初代喜美栄は、当時の花形津軽三味線演奏者であった白川軍八郎の弟子、井上勇美人の愛妻として夫婦して演藝團に参加していた。
唄は言うに及ばず、三味線、鳴り物まで何でもこなしたと言うから、正しく津軽民謡のスーパースターとも言えよう。
後の三橋美智也などは、その膝に抱かれて大きくなったと言う。


一言でいいますと、陸奥の家では民謡舞踊や民俗芸能を極めて行きたいと思います。華扇では、古典舞踊や創作舞踊、そして歌謡舞踊を極めて行きたいと考えております。
では、何故陸奥の家と華扇を分けたかといいますと、初代喜美栄先生から、陸奥の家のお名前を継ぐ様にと言われ、正直と惑いました。それまで民俗芸能に深い関心はありましたし、事実、取材や様々な舞台公演にも参加していました。そんな中で、津軽手踊りに出会い、思わず初代喜美栄先生の門を叩いてしまった訳なのですが、当時の私にはそのお名前を継げる様な力量などなくって、怖いと思いました。でも、やってみたい、陸奥の家として津軽の手踊りを広めてみたい、極めてみたいという思いのほうが強かったんです。
それまで私は、古典舞踊の世界でお教室や舞台公演を行って来た訳ですけど、陸奥の家として津軽の踊りを皆様にご披露したりお伝えしたりするようになってから、意外と歌謡舞踊の振付やお教室のお誘いが多くなったんです。そうですね、17、8年くらい前だったと思います。
踊りって、皆のものだと思うんです。ですから、この曲で踊ってみたいとか、いろんな曲を聞いているうちに体が動いちゃう、けど、聞いてる人が自分ではうまく動きがまとめられない、そんなところに私どもがいるんじゃないかなって思うんです。
歌謡舞踊の世界も素晴らしいなって思うんですよ。とっても人間の世界じゃないですか。命の発露そのものの世界だと思うんですよ。ただ、思うんですけど、基本だけは大事にしたいなって。
古典舞踊の世界は、とても堅苦しい掟やしきたりがあります。それを煩わしいと思った時期もありました。踊りには邪魔だと思った時期もありました。でもそんな掟やしきたりって、必要な部分もあるんだなって、正直今は思ってます。その一つが基本となる動きのを如何に教えるかって言うことなんです。
日本舞踊の動きって、とっても合理的なんですよね。
民謡舞踊や民俗芸能を、現地の動きそのままに舞台化するなら私どもは必要ありませんし、現地の方にはとても敵いません。素晴らしい動きが沢山ありますし、とても私が一朝一夕に動けるわけもありません。永い間そこの方々が培ってきた生活の知恵、命の知恵がその動きにはあると思うんです。
でもそれを多くの方々にご覧いただきたいと思ったときに、研究や学問のためじゃなくって楽しみとしてご覧いただこうと思ったときに、私どもが必要になると思うんです。だったら陸奥の家一本でいいじゃないかってお思いになられると思うんですけど、そこに、初代喜美栄先生の思いを強く感じるんです。
初代喜美栄先生は陸奥の家演芸団と言う唄会の一座にご主人の井上勇美人さんといらっしゃったわけですけど、やはりその津軽の民謡、初代喜美栄先生は踊りだけでなく、お唄から三味線鳴り物までなさったそうなんですけど、少なくともご自身の踊を残したいと強くお考えだったと思うんですよね。
陸奥の家というお名前を考えたとき、やはりそれは民謡舞踊と民俗芸能のためのものではないかなって、当時も今も思っているんです。
そこで悩んだ末、それまで自分がやってきた古典舞踊や創作舞踊、そしてお誘いの多かった歌謡舞踊の世界を華扇として統合することにしたんです。そうして日本の動きの基本に適った歌謡舞踊を確立して行きたいなって考えて流派を起こしたんです。昭和62年の8月でした。焼津の操栄さん、静岡の菊栄さん、埼玉の栄華さんが最初の分家さんです。
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